ロードムービーを視る目――「パリ、テキサス」に関しての所感

もう先月末のことになるが、ドイツ・ニュージャーマンシネマの旗手と名高いヴィム・ヴェンダース監督の作品二つを某所で観てきた。 一つは「パリ、テキサス」でもう一つは「ベルリン・天使の詩」。

最初に「パリ、テキサス」を観た。 結末について詳細は明かさないが、正直言うとすっきりするラストとは言い難い部分があった。 観終わった直後には、「この映画はなんというか、”エンタメ”してないな」と思った。観る者を飽きさせない”良質なコンテンツ”に普段接しているデジタルネイティブで現代っ子の私にとってみれば、ロードムービーらしさをたたえたこの作品はいささか退屈なものに思えた。

しかし、少し時間が経つと少し考え方が変わった。以下、どうしてそう思ったのかを書き出してみた。(以下若干のネタバレを含みます。注意)

映画界でたぶんそういう「流れ」があったのだと思うが、主人公の男はかなり「ダメ男」ということができるだろう。 そう言ってしまうとキャラクター像が薄っぺらく捉えられてしまうかもしれないが。 それはしかし、主人公がダメだというだけではなく、現実のタフさみたいなものを感じさせてくるので、自分みたいな人間には共感というか、えもいわれない感情を起こさせるので、別にそれはいいのだ。 それらの描写とは対比的に、この話の中では部分的にご都合主義的な展開もあった。そういった部分は私にとって、この物語がフィクションであり一つの空想、つまり嵐が去った後のfairy taleなのではないかとの情感を抱かせた。

主人公が荒野の中を走る真っ直ぐな線路の上を、ただ歩いていくシーンがある。絵になるシーンであり、このお話の象徴をなす一つのカット、シーンであろう。結局彼は探しに来た弟に捕まってしまい、その先を進むことは叶わないのだが、弟は進もうとする兄を止める時に「この先には何もないのに」といった類の発言をする。 時間が経ってみると、このシーンが象徴するのはこの主人公の人生であり、また人生一般についての作家の見方ではないかという気がしてきた。何もない荒野を、傷付いてもなお進んでいく。彼の人生に重ねてみるとそこで感じられる感情がなんとなく我が身にも伝わってくる。 人生におけるある種の無意味さ、不安、空虚。人生における何もなさ。 ロードムービーというからには旅のパートが重要な要素を果たすはずである。その中で人生の意味や、今まで回収できなかった記憶などが再び呼び覚まされ、彼らの中で整理されていく。その過程を描くのがロードムービーにおける主題なのではないかと、多くを観たことがないながら推測する。

分野的には宗教社会学などにあたるだろうか、ターナーは日常的社会関係を離れる行為としての巡礼の分析に、ファン・へネップの通過儀礼論を適用した。 すなわち、巡礼は以下の三段階から成る。「日常生活世界からの離脱/移動/日常生活世界への帰還」。 巡礼という行為を押し広げて、旅、それも人生の意味を探す旅をも含める場合、 この巡礼における3段階の変化という見方をロードムービーを見る際にさらに応用してみればどうなるだろうか。

この映画の構成に当てはめてみると、作中においては三段階のうち「帰還」のパートがない。 つまり旅からの帰還、意味付けの過程がほぼ皆無と言っていい。 これは裏を返せば主人公の人生そのものが旅路であり、意味付けをする間もないまま、いや旅がまだ続いているということの表れではなかろうか。彼はおそらく、愛する人との再会をまだ完全に消化できていない。 彼は現在進行形で自身の記憶、愛する人、別離、自身の人生、意味に向かっているのであり、またこれからも一人で向き合っていくのではないだろうか。私には、先に挙げた線路を歩くシーンが、一人でその作業に向き合っていくことの比喩に思えてならない。

この日わたしは同時に同じ監督の作品である「ベルリン・天使の詩」も観ていた。 著名な作品であり、詩的な台詞と時代背景との関連が面白く、密度の高い作品であった。同時に観ることができて大変よかったように思う。 しかし今、どちらか好きに観ることができて選べるのだとしたらわたしはおそらくパリ、テキサスを選ぶのではないかと思う。 おそらく、この映画における魅力というのはこの意味付けのパートがはっきりと描かれていないところにあるのではないか。 最近また別の機会に、いわゆる男性向けノベルゲーム原作のアニメを観た。 大変感動してブログ記事などでの感想も少し読んだ。その記事の中に(アニメ版は”そういった”要素は極力省かれているのだが)「エロ要素はこういう話に絶対的に必要であって、なぜならそこに至らないといつまでもヒロインへの恋を終わらせることができないからだ」という主張があった。 感じ方は人それぞれだろうし、それはそれとしても、ある種この主張と似たようなものをこの映画の中にも感じたのであった。 それはつまり「終わらせる」「終わりを感じる」ことができなければいつまでも引きずってしまうということだ。 もちろんパリテキサスで感じた「終わらなさ」「未消化感」というのは良い意味でだ。 これがあることによって、自分の中でラストについての了解を得たいがためにまた観たいと感じたいのではないか。そういう風に思った。